昭和四十八年八月十七日 朝の御理解


御理解第三節
「天地金乃神と申すことは、天地の間に氏子おっておかげを知らず、神仏の宮寺、氏子の家屋敷、みな神の地所、そのわけ知らず、方角日柄ばかり見て無礼いたし、前々の巡り合せで難を受けおる。この度、生神金光大神を差し向け、願う氏子におかげを授け、理解申して聞かせ、末々まで繁盛いたすこと、氏子ありての神、神ありての氏子、上下立つようにいたす。」


 天地金乃神と申すことは天地の間に氏子おっておかげを知らずという、天地の間にという、これは、人間が棲んどる世界だけでなくて、御霊達の棲む世界もひっくるめたものですね、天地の間におってというのは、ですから、私共人間でも、天地の親神様のご恩恵を受けておる事が判り、有り難いと云う日暮らしをさせて頂くと同時に、御霊も矢張り天地の間にある事の喜び、安らぎのおかげを受けなければならないという事、今日はね、ここのところを聞いて頂きたいと思う。
 私共は、現実の事ばかり、自分の今の事だけ、そして、成る程、成る程と合点が行くような感じでしたけどね、成る程天地の間に、云うなら天国も、云うなら、天国も地獄も、根の国も、底の国も、どこよりも天地の間にあるのです、天地の中にあるのです。
 ですから、私共が信心の教えによって、そこのところの天地のご恩恵を判らせてもろうて、それに神恩奉謝の生活をさせて頂いて、今まで思い違いをしておった、または考え違いをしておった、そこんところを神仏の宮寺、氏子の家屋敷、皆神の地所、または、方角日柄ばかり見てという事は、もう根もない事を本当の事の様にでっち上げて、それで苦しんでおる様なもの、それで窮屈な思いをしておるという事、所謂、検討違いも甚だしい。
 天地の中にはもうそれこそ、氏子可愛いいのご一念だけしかないのだという事、人間幸せになってくれよと云う、その願いだけしかないのだと、それをあちらへ行ったら方角が悪いの、こちらへ行ったら、と云った様なね、それをよけまわる様な生き方とは、と云う様な間違った考え方を正さして貰う、考え方によって、私共、日々、只、神恩の有り難さ、その深さ広さに只々、恐れ入った生活をするという事、どう言う中にあっても、恐れ入った事ばかりなのだと、それは、私共人間社会だけでなくて、御霊の世界においてもしかりだという事を、私は判って頂きたいと思う、天地金乃神様と申すことはと、天地金乃神様という方はね、こういうお方なんだ。
 先日、もう10日も前だったでしょうか、此の冷房関係で、杉山三男さんが、おかげ頂いとりますから、その日、終日ここでご用頂いとりました、晩も夜の御祈念ころまで、ガタガタやっておりました、それから、私が夜の御祈念終わらせて頂いて食堂へ行きましたら、ようやくご飯が出ておるところでした、お食事前に、あの人が一杯好きですから、おビールが1本だしちやった、もう半分くらい飲んどった、そこへ私が行ってから、私も一杯頂こうかと云うたら、それはもう、なんともかとも云えん顔するんですよ、一本のビールば楽しみかえって飲んどるのに、もうあと二杯位しかないのに、私が一杯飲もうかと云うたもんじゃけん、もうそれはですね、お酒の好きな方にですね、一杯あげようかと云うたら、それはですね、ニコッと、それはまた、なんとも云えん顔しますもんね、それと同じです。
 それ一杯引かれると、まあ、それは、明状し難い表情するのです、もう私は、それがおかしうして、問題はね、此の人は一本ではちょっと足らんのです、それで、んならこことして、さあもう一本と云う訳にもいけないし、本人としても、ここではま一本下さいと云う訳にもいかない、だから、私の心の底にはね、もう一本出してやりたいと云うのが、私の願いだった。
 それには、もう一本持って来てやらんかと云う訳にはいかん、そこで私が一杯相伴した事によって、それが次には又、ニコッとしてね、又なんとも云えん顔を見てからね、私はそれを本当に思いました。
 その時に、天地の親神様のあられ方というものはいつもより、おかげを下さろう下さろうの一念だけしかないて、それを折角頂いとるとを差し引かれたと云うところの時点だけで、終わったらおかげにならんです、そこに日頃例えば、天地の親神様のおかげを本当に判っとらんと、それが出来ん。
 それはひょっとしてあとは出らんかも知らんけども、打てば響く様でないかも知れんけども、神様の願い、思いと云うものは、よりおかげを下さろうとする働きだけだと云う事です、だからよりおかげを下さる、より力を下さろうとするその働きを、私共が、どのくらい無駄にしておる事があるか判らないと思います。
 そして、それを悲しい事だとか、嫌な事だとか、腹の立つ事だねだとか、とかと云う事だけで、受けてしまったんではいけませんよね、神様のそれは、杉山さんの場合は、たてかいの様ですけども、神様の場合でもそん感じがするです、たてかい、神様も皮肉だなあとか、とか云う風に感じる事があるけど、皮肉でも、たてかいでもないです、私はそれを感じた、もう、よりおかげを下さろうとする、例えば一つのおかげを下さるにもです、その氏子氏子の今願いとか、信心とか、その受け物とかによって、受けて下さるのは大体決まっている訳です、けれども、親として、もう少しやりたい様な場合だってある訳です、そんときにはです、今云う、私も一杯頂こうかと、云う様なところがあるのです、もう次の瞬間には、もう一本持って来いという事になっているんです。
 私がなら二杯も三杯もがぶがぶ飲みなんて、只、一杯頂いただけなんだ、引かれたけれども次には、大変なプラスになっておるという。
 私が、椛目合楽を通して、おかげ頂いて来たのは、皆それだと思うんです、普通から云うたら、マイナスになる事ばっかり、それとなく御神意を判らせて貰うて、有り難いと受け、元気な心で受けていくという事、その事によって、もう引かれたのが一つであるならば、もう次には五つも六つも、いや、目には見えんけれども十も二十ものおかげを下さってある様に思うのです、だからその辺のところを一つ体得いたしときませんとね。
 天地金乃神と申すことは、天地金乃神という方はね、そういう方なんだという事です、そして、現在なら私共が、検討違いの事を考えたり、思うたりしておる事を正しくして行かねばいけんのです、それは、此の世あの世を通してなのです、だから、私共が力を受けておかねば、ならあの世でもです天地金乃神様のおかげを受けなければ、立ちいかんのだと云う事を、判った御霊、判らん御霊と、はっきり言葉で云うなら、地獄と極楽と云う程に違うだろうと思うのです、それは、此の世だって同じでしょうが。
 神様のご恩恵というものを判っておるもの、判ってないもの、どんなに、億万の金を持っておったって、地獄の苦しみをしておる人があるでしょうが、信心があればそれこそ、その日暮らしではあるけれども、天地の親神様のご恩恵を十二分に心に感じさせて頂いて、有り難い、もったいないという生活をしておると同じなんです、御霊の世界だって同じです。
 昨日の御大祭後に他所の先生に、お説教をお願いする様に勝彦に申しましたら、そげん、あなた、先日もどこどこ先生にお願いしたら、とてもお説教を云うてもらうならば、一週間くらい前から云っておってもらわねば、それはお話は出来んて、しかし、他所の先生方はやっぱりそうだと思いますね。
 そのかわり、原稿通りにお話がです出来る、けど私共はその時感じておる、その時実感じさしてもろうとる事、の、おかげを受けておる事を話すのですから、例えば、今朝の御理解なんかも、そうです、昨夜から考えておった事でもなんでもない、今朝の御祈念に感じた事、又、教典を開かせて頂いて、それからヒント頂いてお話をしておる。
 ですから、親先生、あなたがしなされにゃ出来んですよと云いますから、と云うて、突嗟に私の話を皆さんに聞いて頂いた訳です、お話をし終わってから、感じた事ですけれども、祈願祭という事がです、様々にまあここで云うならば、あの五つの願いと云うものは、人間の願いのすべてが入っていると思ってもよいくらいです、だけではない、天地の親神様の願いのすべてが入っていると思ってもよいくらいです、あの中には。
 五つの願いというものは判れば判る程、神様の願いは他にない、もうあれだけなんだ、そうすると、私共の願いもあれだけなんだ、あれを頂きたいばっかりなんだ、だから神の願いと氏子の願いが、ここでぴったりするから有り難いのである、そこで、ぴったりしただけではいかん、なら、神様が下さるところのおかげを受け止めさして頂くところの信心、受け止めさして頂くところの力、受け止めさして頂くところの受け物を頂かせて下さいという事にも発願しなければならない。
 矢張り祈願しなければならないという事を昨日申しましたよね、ですから、只、祈願祭という事がです、只、お願いするというだけでもです、おかげは受けられるという事で、昨日私がお話をしたのは、そういう生き方で行けば、おかげではない、お徳が受けられるという話しを昨日したと思うんです。
 お願いをする、只、お願いをする、そして、おかげを頂く、これではおかげだけでしょう、けどもお願いをする、その時です、私自身心の受け物を作らせて下さいというて、願うという事はです、受けものあっておかげを受けるというのですから、受け物を作るという事はそのまま力であり、それが重なってお徳にならない筈はない、ですから、昨日の御理解は、だから普通の祈願祭だけでも、だから祈願が叶えられる、または、叶えられない事もある、けれども矢張り叶えられる、けれども昨日のお話は、おかげも頂きたいが、おかげを受ける受け物を頂かして頂きたいという事の両面がね、なされなければならないという事を話した。
 私は、昨日驚いた事があるです、昨日、冨永さんがお参りされて、御祈念のあとに、永瀬さんのお話で、昨日、お母さんがお夢の中で来なさったですよと云う事であった、しかもあなたと一緒に写った写真が欲しいという事であった、何か、記念祭か何かの時に、御本部で一緒に写ってある、それで、それを持ってきて、冨永さんにあげられた、ここで見せて頂いた、ああほんなごとあん時じゃったなあと思わせて頂いた、それで神様にその事をお届けさして貰いよりましたら、御霊様としては、写真が欲しいのじゃなかった、真実の事を写したいというのが願いであるという事であった。
 もう力を受けとる御霊というものはもう、例えば50日祭とか何とか待たんでもう、働きが出来るという感じがいたしますね、あれしこ信心しよんなさって、どうしてという様な言い方をする事によって、いわば、御霊様を傷つける様な事になる、そう云う事を昨日云うた人があったそうです、あとから聞いた話です、それからどげな事でも云うねというて、私は、その事を心に掛かってたまらんから、御神前に出らして頂いた。
 そしたら、テーブルにね、ビニールのテーブル掛けなんですね、こう掛けてあるのです、それをそういうたというその人がね、お神酒を頂きよるところに横にあった、醤油のを杯の中にかばかばとついだものだから、これは一ぺんに醤油で汚れたところを頂いたです。 ははあ、此の人とても、悪気で云うた事じゃないな、只、間違えたなという事です、お神酒をつがんなんとを醤油をついどる、醤油という事は、ここで、紫という事で安心という事です、もうそげな事でも何でもない事で、しかもそれは、そこへんを少しこぼしたから、例えば醤油こぼしたから、心を汚した訳です、けどこれはです、もうすぐ拭けば綺麗になる、杯洗えば、又お神酒が頂ける事だというお知らせを頂きました。
 だから、神様の働きと、御霊自体の働きとを一つに頂いた様な感じの、昨日はね、だからそう言う事云う人の為に、本当の事を写すという働きがもう出来るという事です、御霊としては、本当に私は、しかも今日御理解頂いて、天地金乃神と申すことは、今云う、間違いがあれは、すぐ正して下さるほどしの、働きも下さる同時に、今日聞いて頂きました、私共、見当違いな考え方、一つの問題、一つの事件、そう云う事でも問題、焦点を間違えた考えをするとです、それは氏子の家屋敷、神仏の宮寺の、皆、神の地所という事は、これは本当の事、真実の事を教えておられる、方角日柄ばかり見てという事は、そう云う事はない、そう云う事は問題じゃない、それをそれは如何にもある事の様に、思うたり感じたりしておる事、その事自体が天地に対するところの無礼、その無礼になる事は、その事で難を受けておるという事とおっしゃるのですから。
 さあ、随分考え、見当違いの事をしてです、問題が、問題にこじらかしていっとるのが、沢山あろうと思うのです、それは、天地の働きに無礼致した考え方でおるから、それがめぐりになって、それがめぐりになったり、難儀になったりするのです、だから、その事自体の真相というか、神意というか、神様の本当の心を判らして貰う事によって、問題は即座に解決するのです。
 それには私共が、本気で限りなく美しくなろうやと云う信心に心を向けておかないと駄目なんです。
 見当違いの考え方、それから、前々のめぐりでそう云う事が積り積もって難儀の元になっておるとこう云うておられる訳です、だからそこに、難儀を感ずる時には、見当違い、日ごろ頂いとる信心をどこかにおいてしまって、只、人間的な考えだけでしておる事実がある事をまず自分自身が悟らにゃいけません。
 そして、御神意は何処にあるか、引かれた時点だけでは、三男さんのそのお話じゃないけれども、折角楽しんどるのに、一杯引かれる事はもう、矢張ショックである、ショックというかね、もうもやもやするとこでしょう、けどもそこを判らせて頂くとです、次の時点では、もう一本与えたいばかりの親の心である。
 神様のお願いである事が判る程しのおかげを頂かなければいけんのです、そこを頂いていく事の為に、私共は、日ごろ信心の稽古をさして頂いておる。
 今日は、御理解三節の半ばまでの事をね、昨日、今日、私が感じた事から聞かせて頂いた、どうぞ、三男さんのそのビールの話しを皆さん、心して自分達の上にもそう云う事が必ずあるです。
 さあどうぞという気になった時には、もう次には、此のおかげを下さろうとしてからの為であったなと、判る体験が必ず次には生まれてくるです、そこから、初めて神様の所謂、深い、広い、思いが少しずつ判ってゆく事が出来るのです。   どうぞ。